いーむの日記

本とか映画とか音楽とかいろいろ

人は方向音痴に生まれつくのだ

下校時に迷子になった時点でいやな予感はしていた
入学した小学校は児童の足で徒歩45分くらいの遠距離通学だったが、当初は近所の友だちと登下校をしていた。
いま思うと何も考えずに一緒に歩いていただけでぼーっとしていたのだと思う。
ある日、下校時にいつものように友人と一緒に帰ろうと彼女のクラスに行ったところ「今日は◯◯(習い事だったはず)だから一緒に帰れない」と言われ、入学して何日か目にひとりで下校することになった。

ここでぼんやりにも程がある!と当時の自分に言いたいが、「正門」と「裏門」という概念がなかったのだ。

当時、私と友人は裏門から登下校していたのだが、何を思ったか私はあろうことか正門からスタートしてしまったのである。

何も考えずてくてく歩いているとさすがに「なにかいつもの風景と違うぞ?」と気づく。それぐらいの判断力はあったのである。歩いても 歩いても広がるだだっ広い田んぼ。いつも目にしているそろばん教室も雑貨屋さんも見えてこない。明らかにおかしい。

方向音痴の人はまず最初に踏み出す方向が間違っている

というようなことを目にしたことがあるが、7歳ですでに実践済みである。

そこで私はどうしたか。
幸いにも直進しかしてこなかった自覚はあったので、そのままくるりと踵を返して、来た道を戻ったのである。

おそらくそれは5分から10分くらいの時間だったと思うが、見慣れた学校が見えてきたときのあの安堵感。そのまま校舎に入ってたまたま担任の先生に会えたのは大いなるラッキーだったと言える。
その後、親から聞いた話では「迷子になっちゃった」というようなことを先生に告げたらしい。当時すでにベテランだった先生は、そうかそうか、というように微笑みながら裏門から数分付き添ってくださったように記憶している。

大人になった今、方向音痴である自覚は大いにある。
それでもいまはストリートビューやら多くの地図アプリやらがそれをカバーしてくれている。都内で勤務して、初めての場所にも時間を多く見積もりさえすればだいたい行けるようになった。

それでもあの「世界中でひとりぼっち」のような気持ちは40年経っても鮮やかに蘇るのである。